代表、自身を語る①
アップル・シードの代表者である成瀬毅(なるせたけし)は、1978年2月20日の雪深い日に、愛知県瀬戸市にて生を受けた。
父・福次と母・清美の二男として生まれたが、わたしが生まれる以前の数年間は、父方の清水姓を名乗っていた。
自宅裏の崖上にある瀬戸市立東保育園に通い、そのさらに上にある瀬戸市立祖母懐小学校、それから小川が流れる稜線の向かい側の丘の上にある瀬戸市立祖東中学校に通った。
エピソードとしては、保育園時代は人見知りとひょうきんさが同居し、誕生日がビートたけし氏と同じであると自慢し、園の誕生日会で将来「たけちゃんマンになりたい」と言ってみなから爆笑を買ってご満悦であった。
小学校中学年頃はケンカっ早くなり、高学年頃から内向性が増して読書や反省を早々に開始していた。
中学校に入ると、すぐにやんちゃさが戻ったが、堅苦しく説明もままならない校則に嫌気がさしていた。
中学で最初の数学のテストでゼロ点を取った焦りと、校則への反発からか思索を増し、夏の読書感想文コンクールの課題でアルベール カミュ『異邦人』を読み、「人は30で死のうが60で死のうが大した違いはない(だったかな?)」という言葉に感銘を受けた。カミュが哲学科出身であることを知り、わたしも哲学を志し勉強を開始しようとしたが、小学校の頃に母方の祖父から聴いた、曽祖父が浄土真宗高田派の二男坊であったという話から、仏教のルーツを知りたいという思いもあり、インド哲学という専攻があることを知り、インド哲学専攻を目指して受験勉強をするつもりでスタートした。
勉強してみると校則は些細なことのように思えてあまり気にならなくなり、ルールや世の中自体も「そういうもの」として適当に処理する癖がついてしまった。
愛知県立長久手高校に入ると、勉強の順位的には中位からのスタートであったが、「長久手温泉」と揶揄されていたように、勉強をストップする人も多かった。わたしは「インド哲学」の目標を捨てず、いろいろ「お楽しみ」を後回しにして、メキメキ勉強の順位を上げていった。
夏休みには自宅の和室で「一人合宿」をして宿坊気分で勉学に勤しんだ。いつしか「世捨て人みたい」とクスクス女子たちから笑われたりしていた。
センター試験前に、運試しで受験した広島大学文学部哲学科インド哲学専攻の推薦入試に合格し、両親も「インド哲学専攻合格」をすごく喜んでくれて、不思議な気持ちだった。
インド哲学故の苦難の人生のはじまりでもあったけれど、「広大」と「インド哲学」という近くて遠い距離感故か、世間はよくいじってくれたものである(笑)
研究室の助教授は「チ〇カ〇野郎」みたいな汚い言葉で罵倒するタイプの昭和の最悪な部分を生きた人物だったが、また、両親への恩義も語る小人物でもあり、私はわたしで、ふむふむ、親たちはあなたから子供たちが「〇ン〇ス野郎」と呼ばれるために汗水流して子供たちを大学に送ったのだと考え、もう泣きそうな気分になっていた。「最悪だ!」と叫びたい日々は、研究に3日3晩没頭して24時間寝だめしたり、東広島の西条から一人呉に行って、岸壁で海に向かって夜更けに黙想する日もあった。
インド論理学では世界的泰斗であった教授は、インド仏教の修行の論書や経典ばかり読んでいたわたしに向かって、「成瀬、ローザンヌに行け」と言っていた。かつて広大イン哲で留学生として受け入れていたスイス人留学生の修了者がローザンヌ大で教授をしていて、席があったのだ。
けっきょく、いろいろ考えた挙句、わたしは卒業後、郡上八幡で「パート」としてアルバイトしてお金を貯めて、チベットの亡命政府があるインドのヒマ―チャル・プラデーシュ(州)にあるダラムサラ近くの村サラにて、在日チベット系のクンチョック シタルさんのご紹介でチベット亡命僧侶とルームシェアして暮らしてチベット語を学ぶ約半年を送った。
古代のインド大乗仏教の言語はサンスクリット語と呼ばれるが、その翻訳語として、チベットの伝説的なトンミ サンボータが作ったと言われるチベット文字で書かれたチベット語を話すように、仏教仏典を分かりやすく人々に伝えたい、そういう思いで渡印したのだった。
やるやると言ってやるように思えなかった世間は後に、まず自分が今やるべきだと思ったのだ。
そういう意味ではわたしはせっかちではあるけれど、その時も、わたしの学歴をきれいにしておくことはまわりくどいだけと思えてならなかった(続)。
