「トリアージ医」としてのハンス・アスペルガー
「トリアージ」というのは、コロナ禍によく知られるようになったと思うが、いろいろ参考にすると、「医療現場や災害時で、患者の状態を直ちに把握し、治療の優先順位を選別・決定するプロセス」と言った意味合いになり、さらに「トリアージ医」は、それを執り行なう医師である。
さて、第2次世界大戦中のドイツ・オーストリアでは、オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガー博士は、ダウン症候群の児童と遊び「選別」を免れさせたと伝えられている。しかし近年イギリスの研究者からなされた批判は、アスペルガー症候群の児童たちの「選別」をカモフラージュした「美談」と言いたいのだろう。
実際、現代の人道的観点からすれば、本来間伐に使う「間引き」という言葉を、人間にそのまま当てはめるような機械的な暴挙と言わざるを得ないだろうから。そのような軽さで、ドイツ側の医師は、障害児を「トリアージ」していったと言える。
成瀬が翻訳・出版した『自閉症論資料集の試み』では、アスペルガー症候群の人は、ハンス・アスペルガーの箇所以外は、お釈迦様がアスペルガー症候群だったのでは?と脚注で議論している。
つまり、近年では発達障害と呼ばれるようになってきている人々は、「世間」という共同体から「つまはじき」され、時代は違えど、出家や出征などの真っ先の対象となったのでは?と考えられる。
だからわたしたちは、「新人類」や「ニュータイプの登場」とうそぶくことや、「美談」や「美談批判」で事足れりとするのでなく、もっと意識的に書けば、これもわたしたちの文明の成果なのだと認識しようではないかと考えたい。そしてまた後戻りすることはカタストロフィーに等しいと言えるだろう。
時に分かりにくいと言われる「支援」の世界は、実は、「支援が必要だったのに支援されなかった人(例えばヒトラーのような)」が、明確に適応とは分けられた「退廃」を持ち出して警戒して見せる。
けっきょくのところ、いわゆる表面的な「弱者」「強者」の分類によって守られるべき、しかし権利ある「弱者」たちの存在は、この文明の優美さだけでなく、到達をも示している。
他方、「強者」たちは、自分たちの「快適さ」の発明をシェアし合い、この文明がもはや時空の制限なく「快適さ」追求と持続可能性について議論している。
