「支援」-「価値観」=「いいなり」?(2026.6.15追記)
よく、施設への通所利用者さん同士の電話番号やLINEの交換は、お互いの距離の取り方でもめることも多いので、禁止する事業所もあります。かつてトラブルがあったり、これからのトラブル予防のために。。。
支援者の責任問題が大事ならば、個別支援計画に位置づけて、「個人間のやり取りは自己責任で」と明記すればいいという問題にも映りますが、ここでは、当初心中にあった事柄を追求したいと思います。
わたくし成瀬個人は、相談支援事業所アンブレラの管理者兼相談支援専門員として、アンブレラ携帯のショートメールやLINEなどでやり取りすることも増えてきました。中には、アンブレラの相談支援のご利用者さんでない方からも、昼夜問わずご連絡をいただくことがあります。まあ何か義務的なものを感じ、受け答えはしますが、やはりご利用されていないと、それがどういう問いで、どのようにお答えすべきか、迷うことも多いです。
ともあれ、かなり表題からそれてしまいましたが、障害福祉サービスは、国・都道府県・市区町村の税金が投入されている「公共事業」のような性質がありますから、それぞれの行政の「デザイン≒計画」に沿ったサービスでないと税金の返還や指定の取り消しが要求される場合があります。
表題「『支援』-『価値観』=『いいなり』?」に戻りますと、支援者の価値観は、支援にとってマイナスに作用しているばかりの認識に映りますが、プラスに転じた場合は、支援しやすさがアップする「ラポール(=いい感じ?)」が増すばかりでなく、利用者さんの長所を引き出し、利用者さんが社会で生きやすさや適切さを獲得し、適応しやすくなることもあるのでは?とわたしは考えます。
支援者の価値観で、「~すべき/すべきではない」「~なはず/~なはずではない」という、いわゆるパターナリズム(家父長制的)と呼ばれる、理由も根拠も定かではないが、垂直的に指示され与えられる「教え」について、支援者がうまく昇華できていないと、極端な話、以前コラム「感情労働について」で触れたような、利用者さんの前で負の感情を押し殺さないといけない辛い労働になってしまいます。
しかし、支援者の価値観としてではなく、「自分は一人の人間としてこうしていたい」という思いや信念は持っていても、「世の中の多様な価値観を学ぶ」という姿勢ならば、逆に、「『支援』+『価値観』=∞」となるかも知れないですね。
世の中の価値観としては、古くからある基底的なものから現代巷にあふれている流行的なものや、宗教や思想・信条など、多種多様でしょう。
まず利用契約書の段階では、宗教や思想・信条は自由ですが、営業も含めて、館内で広めることは禁止されるでしょうし、勤務のレベルまでいけば、LGBTQを含むどのような「性的志向・性自認(SOGI)」を個人的に持っていようが仕事には関係がなく、ハラスメント(嫌がらせ)として排除されるでしょう。
他人が嫌がらないように配慮すること、他者への配慮によって、利用者さんのみならず、スタッフも働きやすく生きやすくなるなら、世の中の多様な価値観を学ぶことと、意見や受け止めかたが異なる人たちと向き合ったり話し合ったりすることは、すべての人を引き止めることは不可能だとしても、指針にはなります。
価値観に関しては、世間的な因習・言い習わしもあれば、「ポリアモリー(多数性恋愛?)」などもあったり、悪口や噂など言いふらしていても、言っている人自身の受容度や信用が減るかも知れないですね。
また、精神的な診断に関しては、診断があるかないかは別として、それによって社会的な信用が損なわれ、名誉棄損になると考える人なら、外からの公的な「スティグマ」として嫌がらせに感じるでしょうし、自分からスティグマと思い気にしすぎることは、逆/自己差別的なものとして、ケアの対象として考慮に入れたくなります。
診断があるならば、「オープン/クローズ」の違い、オープンにして適切な配慮を必要とするならば、「ヘルプマーク」のような標識もあります。適切に接してくれないということは、それだけその人へストレスや負担をかけ、憤激の原因ともなります。その際、憤激する者が感じているストレスや負担が、いつ・どこで蓄積していたものか?あらかじめ適切に説明していたか?逆に、接し方や接する者の意識・認識など極端な偏りはなかったか?など、課題は多いでしょうが、どちらか一方が正義で他方が従ってばかりの関係ではなく、対等な関係性であることは、さまざまな衝突や随時の対話など、多くの途中経過を要するでしょう。
また、言動の前提となっている根拠が、そもそも、「ふつう」や「みんな」、「女性は」「男性は」、「日本人は」「韓国人は」など、検証不能にもかかわらず善意のオブラートをかぶせた思い込みによって相手にあてはめる「マイクロアグレッション」となっている場合は、発信する側の悪意は「些細なこと」程度しか認識されないままになってしまいます。
まとめとなりますが、何か単一な価値観やゴールを決めて、そこに向かう晴れ晴れとした明るい気持ちを持つことは、そのまま順風満帆な人生や社会的な生活を約束していません。そこに向かって実際に歩みはじめる途上は、意想外に長く感じられるでしょうし、さきほどから記してきた事柄がどうして目標を曇らせてしまうのだ!と思えてしまうなら、わたしを含むその者自身が、ケアや休息を必要としていますよね?(笑)
社会がどこに向っているか? 社会の維持・発展のためには、素晴らしい効率も必要でしょうが、何のための社会か?個々人のための社会ではないのか?という思いを念頭に置いて忘れていないならば、前に進みつつ、共に歩む者の足取りや息遣い、感じ方や考え方など、気をつけて配慮しながら、楽しんで進むことそのものに、じつは最終ゴールがすでに含まれているのかな?と思う今日この頃です。
