障害福祉現場で思う「必要悪」
わたしは、障害福祉分野の人材で必要な素質として大切なのは、「人権感覚」、あるいはむしろ、「人権感覚で生きてきたこと」だと、常々思っている。
単に「正義にうるさい」というのではない。その実現の難しさを思い知った上で、なおそれでもそうする決断をよしとした人のことである。
その実現法については、ハード(お金・物)が先か?ソフト(人権などの思想)が先か?の議論は大いに巻き起こると思うけれど、両方必要だし、欠かせない両輪であろう。しかしハードを先とした場合、その実現のために少々荒っぽくなるのも、みなさんご承知おきのことだろう。
さて、福祉に限らず、いつまで「その悪」の必要性を認めて、善の実践をしないのですか?と思うときがある。それを「必要悪」と思った時点で、改める絶好の機会なのである。周囲はその覚悟と決断、言語一致をよく見ていて、いつまでもしない「やるやる詐欺」と揶揄されるのを待っているようだと。
また、障害福祉の実践から、徐々に世の中の「必要悪不要論」を問うていくことも可能である。
サービス管理責任者や相談支援専門員らに課せられた「ソーシャルワーク」が、障害福祉の分野において、狭義の計画立案だけにとどまるなら、制限速度が時速50キロの道路で、時速10キロで走り続けるのと同じである。何なら時速60キロまで誤差で許容されるのに、ある程度世の中の流れに沿わないと、時速10キロでは、かえって迷惑行為である。
制度と言うけれど、何らかの理由で制度を狭く理解しているだけで、その「何らか」がどんな理由なのか、言える場合と言えない場合があるなら、そこは究明していくべきだ。
ソーシャルワークしていく際に、単なる情報でなく世の中のことを知らないといけないし、深く理解するためには、自分自身についても深く知る必要があるだろう。
いま何をすべきで、いまは何をなさないべきか? これは、常に自問自答すべき事柄だと、わたしは思う。
