「本人」として語っている主体は、いったい誰なのか?
支援の現場でよく大切にされる「本人」や「本人の意思」とは、誰のことで、何のことなのか?
わたしは「意思決定支援」とは、いまや、ご本人方が世間共同体の言語で以て語る言葉を選べるよう促すことと考えているが、それでは世間人を拡大再生産しているのと同じである。自分たちと同じように振る舞ってもらうために、彼らしょうがいある方らのしょうがい故の独自性があるのかどうか?その断絶の有無に関する問いは、いまだなされていない。
それでは、「意思決定支援」によってアシストされた言い方以外の言い方とは、どんなものなのか?そしてその独自な物言いは、もはや、彼らに「しょうがい」の烙印を押してしまうものなのだろうか?
つまり、「本人」の名において支援の現場で語られている「希望」や「将来」は、提案された中からの単なる選択肢なのか?そうでなければ、拒絶か?独創か?そしてそれ(ら)を生きる主体が支援を必要としない限り、もはや「しょうがい」はないのではないか?
わたしたちは、そう多くはない選択肢の中から何か「好み」を選び取り、あまりな自由でいることをやめ、「不自由」な生活で好んだ選択肢に責任を負わされるか、そこから逃げる。
選択肢を拒み自由で居続け、支援をもらい続ける者を、もはや世間は黙っていないし、誰も支援しなくなるか、できなくなる。
成長することも、欲望する内容は脱性化のままか、コントロールを免れるための放逸か、あるいは禁止か・・・
わたしたちは選ぶことにおいて、優等生かどうか、それは得と思い、あるいはできないと考え、それともそうしたくないと感じ、あるいは選ばず、それぞれの「道」の極限において、孤独や諧謔、苦みなどを味わいつつ、「丸くなって」共同体に戻っていく?
わたしたちはそれぞれの出自や選択、進み方などの諸条件を通じて、大きな現れ得ない者の個々をそれぞれ演じ、各々のリゾーム状の先端を生きている。そしてそれぞれの先端において、わたしたちは、わたしたちをそうせしめた者を知るのだろう・・・
